た ち |
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太刀 |
江戸時代前期に刈田嶺神社に奉納され、以後御宝刀として大切にされてきた太刀で、姿、鍛え、刃文の様子から鎌倉時代の太刀と考えられ、全体に細身であることから儀礼用とも推測されます。鎌倉時代など古い時代の刀剣は現存数も少なく、貴重な文化財です。茎(なかご)の表面には「備前国住人安家」と銘が切られています。「備前国の刀工、安家がこの太刀を作った」という意味です。
平安~鎌倉時代の太刀は馬上で用いられることを想定しており、徒歩の兵に上から斬りつけることができるよう長めに作られています。こうした古い時代の太刀は、時代が下って徒歩戦闘が主となると長過ぎて使いにくくなったため、手元の部分の刃を削り落して全長を短くする「磨り上げ(すりあげ)」と呼ばれる改造を施されることがありました。しかしこの太刀には、そのような後世の改造が施された形跡は認められず、切先から物打(ものうち。先端から15センチ程の刃部)あたりの研ぎ減りが目立つ以外は比較的健全な、昔ながらの状態を保っていると考えられます。
残念ながら、切先に変形(まくれ)が認められ、しかもそれを目の粗い砥石を用いて修正を試みた痕跡があります。この点は美術刀剣として大きな欠点と言わざるを得ません。切先の変形と修正痕跡は、後で述べる渡米中についたものと思われます。
この太刀は、白石城主片倉家中の医師千葉道悦によって貞享5年(1688・江戸前期)に刈田嶺神社に奉納され、神社では『白鞘御宝刀』と呼び大切にしてきたと伝えられています。大正9年(1920)に重要美術刀剣の鑑定を受けており、そのことが鞘に墨書されています。太平洋戦争中の金属資源供出も無事免れたものの、戦後、GHQによる武器接収によって神社の元から離れて以後消息不明となり、神社側では処分されたものと考えていました。しかし実は、太刀の鞘書から貴重な宝刀であると感じ取ったGHQ従軍牧師アレキサンダー氏によって保護され、辛くも処分を免れていたのです。アレキサンダー氏はこの太刀を伴って帰国し、長く自宅で保管していましたが、昭和50年頃、日本人留学生がアレキサンダー氏宅を訪ねた折、偶然この宝刀が目に止まり、帰国後神社側に連絡したことで消息が判明しました。その後、地元氏子らの働きかけにより昭和63年に晴れて返還がかないました。
この太刀は一部欠点があるものの、鎌倉時代という古い時期の作として比較的健全な状態を保っており、美術刀剣の資料的価値は高いと考えられます。また、それに加えて、地域随一の神社に対する奉納刀であるとともに、太平洋戦争後の一連の経緯から当時の時代背景や地域事情などを読み取ることができ、郷土史料としても高い価値を有しています。
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長 さ |
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78.8㎝(2尺4寸) |
反 り |
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2.4㎝(0.7寸) |
目釘穴 |
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2 |
鍛 え |
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板目 |
刃 文 |
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直刃 |
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銘(表)備前国住人安家
銘(裏)奉納奥州刈田宮白鳥大明神宝庫
貞享五戌辰二月九日 白石住千葉道悦 |
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所有者 |
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刈田嶺神社 |
所在地 |
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蔵王町宮字馬場1 刈田嶺神社境内 |
指定年月日 |
: |
平成26年3月31日 |
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神社の宝物として秘蔵されており、通常は公開されていません。 |
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