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戊辰戦争後の転居地石巻に伝えられた、仙台真田氏の足跡
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喜平太の業績を刻んだ墓誌銘
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仙台真田氏第九代当主喜平太幸歓(きへいたゆきしげ)は、文武両道に才能を発揮し、様々な役目を拝命しては数々の献策を行い幕末期の藩政をよく支えた人物です。早い時期から西洋の兵制砲術を学び、藩兵制の洋式化に尽力しました。また、喜平太は『勤皇派』の立場をとり、天皇中心の政体において仙台藩が主導権を握るための案を練りました。中でも慶応3年(1867)、幕府大政奉還の折に藩主慶邦(よしくに)に行った即時上洛・版籍奉還と郡県制導入の建白・京都守衛の建言三ヶ条は、後の明治政府の施策を先取りしたきわめて先進的な案として評価されます。しかし保守的な藩体制を変えるには至らず、明治元年(1868)に勃発した戊辰戦争では仙台藩は反官軍派となり、後に全面降伏という結末を迎えました。
戊辰戦争の後、喜平太は牡鹿郡石巻に転居、郡の学事担当官や書記官などを勤めて明治20年(1887)に死去、石巻の西光寺に葬られ、その業績を刻んだ墓碑が建てられました。後に仙台真田氏の菩提寺、仙台の成覚寺に遺骨のみ改葬され、墓碑は西光寺に残されました。西光寺では、この墓碑を寺にゆかりの人物の碑として大切に守り伝えています。
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喜平太墓碑の篆額 |
西光寺 |
『旧仙台藩真田君墓』と刻まれる。喜平太が長く仕えた藩主伊達慶邦の子宗基の筆。 |
北上川河口部の西岸、日和山の南東麓にある古刹。この寺には喜平太の墓碑のほか、喜平太の妻と、長男昌棟の墓碑も伝えられている。 |
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見学メモ
※西光寺とその周辺は、東日本大震災による津波で甚大な被害を受けました。
ここで紹介している真田喜平太墓誌銘についても付近に倒伏した状態となっています。
所在地 |
石巻市門脇町2丁目 西光寺境内 |
所有者 |
西光寺 |
公開日 |
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料 金 |
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駐車場 |
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現地までの案内表示 |
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現地での説明表示物 |
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見学のための手続き |
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見学地の整備状態 |
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