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郷土史の通説を覆した 幸村遺子の護衛役の墓碑
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我妻佐渡墓碑
中央に『地・水・火・風・空』を表す五種の梵字、その下に『為我妻佐渡菩提也』と刻まれています。上端が屋根状に尖り、棟部に2本の線刻が施された、当地方では類例がない形の墓碑です。地元では「隠れキリシタンの墓では?」という説もありましたが、調査の結果、関東以西に多い『板碑型墓碑』と判明しました。 |
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我妻佐渡は幸村の家臣三井景国の部下で、慶長20年(1615)の大坂落城後、京都に滞在中の片倉重綱のもとに幸村次男大八と3人の女子が送り届けられた際、その護衛をしていた武士です。その後、引き続き遺子たちの護衛を勤め、奥州へと下りました。
これまでは、我妻佐渡は奥州に来着後、我妻与惣左衛門(あがつまよそうざえもん)と改名して、幸村五女阿梅の護衛を務めた穴山小助の娘と結婚して白石の福岡村蔵本勝坂に住んだとされていました。
しかし近年、蔵王町曲竹地区・我妻家においてこの墓碑が確認され、また、大正9年(1920)に建立された同家の代々墓の碑文に『我が祖佐渡は大坂落城のみぎり…(以下略)』と刻まれており、同家において大坂の陣と深く関わる人物であったことが伝承されてきたことが把握されるに至り、我妻佐渡と我妻与惣左衛門とは別人物であり、我妻佐渡は曲竹で暮らして万治3年(1660)に死去し、同地に葬られたことが判明しました。
曲竹村に来住した後の我妻佐渡の身分や、仙台真田氏との関係は不明ですが、同家では先祖は武家だったと伝承している点、曲竹村は仙台真田氏に与えられた知行の中でもっとも多くの貫高を占める点などを考え合わせると、我妻佐渡とその末裔たちが、仙台真田氏と何らかの関わり合いを持って暮らしていた可能性は高いと思われます。
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先祖由来を刻んだ累代墓。大正9年建立。 |
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我妻家旧墓所 |
我妻家に残る旧邸宅石垣 |
最奥が佐渡の墓碑。他の墓碑は当地方の一般的な形態。 |
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見学メモ
所在地 |
蔵王町大字曲竹字妙見 (ミヤコーバス「曲竹」停留所から徒歩5分) |
所有者 |
個人 |
公開日 |
非公開 (個人の宅地内に所在しますので、立ち入りはご遠慮ください) |
料 金 |
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駐車場 |
なし |
現地までの案内表示 |
なし |
現地での説明表示物 |
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見学のための手続き |
非公開 |
見学地の整備状態 |
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