真田大八は幸村の第10子次男で、大坂落城の折は未だ四歳の幼子でした。姉たちとともに白石におもむき、片倉家によって養育されましたが、堂々と『片倉家に真田の姫あり』と公表された姉たちとは裏腹に、男子である大八の存在は厳重に秘匿(ひとく)されました。
元服(成人の儀礼)前の大八は片倉久米介(かたくらくめのすけ)と名乗り、片倉家の客分として暮らしました。元服後は片倉四郎兵衛守信(かたくらしろうべえもりのぶ)と名乗ったと考えられています。寛永17年(1640)、二代目仙台藩主伊達忠宗に召し出され、永代召出二番座(えいだいめしだいにばんざ)、三十貫文取の家臣となります。このとき晴れて姓を戻し、真田四郎兵衛と名乗りましたが、幕府の詮索により再び片倉姓に改めることになります。守信は、真田の姓を再び名乗ることができないまま、寛文10年(1670)に死去し、当信寺に葬られました。
現在、当信寺の本堂裏には守信の墓碑と姉阿梅の墓標とが並んで建てられていますが、元々このように並んでいたわけではありません。それどころか、守信の墓碑は昭和17年(1942)に発見されるまで、その存在自体が知られていませんでした。その後、寺域の整備に伴ってふたつの墓が並べられ、姉弟そろって供養されるようになったのです。
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