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『幸村十一世』と刻まれた、仙台真田氏分家当主の墓碑
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真田豊治墓碑
『幸村十一世』と刻まれる。仙台真田氏分家の代数でいえば、豊治は六〜七代目にあたります。幸村から数えても九〜十代目です。この墓の近くに真田幸清筆子塚があり、そこには『左衛門佐幸村十世』と刻まれています。豊治は幸清の弟幸親の子(養子)であることから、幸清の代数に一代加えて十一世としたものと思われます。 |
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真田豊治(さなだとよじ)は、幕末から明治初期の仙台真田氏分家当主です。仙台真田氏分家の経歴はほとんど伝わっていませんが、豊治は、幕末期に栗原郡三迫金成(さんはざまかんなり)代官所の郡方役人を勤めていたようです。慶応2年(1868)、栗原郡若柳で一揆が発生、零細(れいさい)百姓を中心に4〜5千人という大規模な騒動に発展しました。一揆勢の要求の中に『現在の代官を罷免し、あらたに真田豊治を郡方役人に任じて下さい』という条件が見えることから、豊治が民衆から信頼され、地域をまとめる手腕に定評があったことが伺えます。
明治6年(1873)、刈田郡宮村小学校が開校されたとき、豊治は算術教師を勤めました。当時、豊治は矢附村の仙台真田氏宗家の在郷屋敷を譲り受けていたようで、毎日馬で通勤していたと伝えられています。
豊治は明治10年(1877)に死去し、矢附村に葬られました。その墓碑には『幸村十一世』と刻まれています。
豊治の末娘とつは、矢附村の平間長治と結婚して4男2女を設けました。子供たちは矢附村、曲竹村に分家・発展し、名将幸村の血脈がこの地域に溶け込む契機となったのです。
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真田豊治墓碑 |
矢附地区の畑地の一角にひっそりと佇んでいます。 |
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見学メモ
所在地 |
蔵王町大字矢附字舘 (ミヤコーバス『松川橋』停留所から徒歩10分) |
所有者 |
個人 |
公開日 |
いつでも (畑地の一角にあります。付近の畑・果樹園への立ち入りはご遠慮ください) |
料 金 |
無料 |
駐車場 |
なし |
現地までの案内表示 |
なし |
現地での説明表示物 |
説明板 |
見学のための手続き |
特にありません。ご自由にご見学下さい。 |
見学地の整備状態 |
普通 |
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