1640年、真田守信はめでたく蔵米300石取りの家臣として伊達家に召し抱えられました。
長い間途絶えていた、真田幸村公の血筋と家柄が復活することになったのです!
ところが、守信が召し抱えられてすぐ、徳川家から、守信の家系を調べるようにと命令がありました。
どうやら『真田守信は、本当は幸村の息子、真田大八なんじゃないか? 徳川家の目を盗んで大罪人の真田幸村の家柄を復活させようとしているんじゃないか?』と、徳川家から疑われてしまったようです。
徳川家の疑いを晴らすため、守信は、せっかく名乗った『真田』の名字を、子ども時代の『片倉』に戻すことになったのです。 |