大八は、『片倉久米介』と名前を変えて育てられました。
このころ、京都で『真田大八は、7歳の時に京都で亡くなったのだ』というフシギなうわさが流れました。
このうわさは、片倉重綱や伊達政宗が流したものだと思われています。
大八が亡くなったことにすれば、片倉久米介(本当は真田大八)を育てやすくなるからです。
その後、大人になった片倉久米介(本当は真田大八)は『真田守信』と名乗りました。
このころ、片倉重綱や伊達政宗は、にせの家系図を作り上げます。
その家系図には、『真田守信は、幸村公のおじさんの孫』と書かれました。これで、守信が真田大八じゃないかと疑われても大丈夫! |