私たちが「蔵王」と呼ぶ山は、太古は「刈田嶺」と呼ばれ、神山として崇められていました。その後、修験道の修行の場として多くの修験者が入山するようになり、吉野金峯山(きんぷせん)より蔵王権現(ざおうごんげん)が勧請されると、いつしか「蔵王山」と呼ばれるようになったのだと伝えられています。
往時、大刈田山(おおかりたさん。現在の青麻山)の東麓に営まれた願行寺(がんぎょうじ)は、この地の修験者の統括として四十八もの子院を司り、奥州藤原氏の保護を受けて栄えましたが、藤原氏滅亡後は衰退し、戦国時代初頭に兵火によって焼失しました。四十八の子院も大半は廃れ、江戸期まで残ったのはわずかに山之坊(やまのぼう)・宮本坊(みやほんぼう)・嶽之坊(だけのぼう)の3院だけでした。後に、山之坊は廃れ、宮本坊は宮蓮蔵寺(れんぞうじ)となり、嶽之坊は金峯山蔵王寺嶽之坊(きんぷせんざおうじだけのぼう)と号し、蔵王山参詣表口(ざおうさんけいおもてぐち)を統括することとなります。
江戸時代の後期、庶民の間で蔵王参詣が流行し、大勢の人々が御山詣りに訪れるようになりました。修験者の修行の場であった蔵王山は、いつしか庶民の参詣の場へと姿を変えていったのです。御山詣りは、江戸から明治・大正、そして昭和に至るまで盛んに行われました。
蔵王の山。時代とともにその呼び名は変われども、太古の昔から信仰の対象であり続けた、人々の心の山なのです。
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