年号 |
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西暦 |
年齢 |
できごと |
文政 |
7 |
1824 |
1 |
誕生。父は真田幸清、母は林氏(弥喜曽) |
天保 |
2 |
1831 |
8 |
はじめて藩主伊達斎邦公に拝謁。歳男子に任命 |
天保 |
5 |
1834 |
11 |
児小姓となる |
天保 |
12 |
1841 |
18 |
藩主斎邦公死去。伊達慶邦公が家督相続 |
天保 |
13 |
1842 |
19 |
藩主慶邦公の城中理髪を命じられ、大小姓となる |
天保 |
14 |
1843 |
20 |
制度改革に伴い小姓職を免職 |
弘化 |
2 |
1845 |
22 |
長女蓮子誕生 |
弘化 |
3 |
1846 |
23 |
再び大小姓となる。藩主の剣術馬術助手、及び和歌連歌衆に任命 |
弘化 |
4 |
1847 |
24 |
次女敏子誕生 |
弘化 |
5 |
1848 |
25 |
実名を幸歓と改める(これまでは喜平太幸之) |
嘉永 |
2 |
1849 |
26 |
藩主慶邦公に従い江戸に参勤
江戸にてひそかに西洋学、砲術兵制を学ぶ |
嘉永 |
3 |
1850 |
27 |
詞堂並びに猿楽担当学問主長に任命。『諱辰録続集』編さんを命じられる |
嘉永 |
4 |
1851 |
28 |
三女理子誕生 |
嘉永 |
5 |
1852 |
29 |
『諱辰録続集』編さん完了(諱辰録は葦東山がまとめた歴代藩主の伝記集。仙台藩はこれまでも続集編さんを試みていたが、不成功であった) |
嘉永 |
6 |
1853 |
30 |
父幸清、病を得る。喜平太が真田家名代となる |
嘉永 |
7 |
1854 |
31 |
開国(日米和親条約締結)
砲術兵法蘭学の研究を命じられる
四女萬寿誕生 |
安政 |
2 |
1855 |
32 |
奥小姓となる
西洋兵制砲術研究を命じられ、下曽根甲斐守に入門 |
安政 |
3 |
1856 |
33 |
下曽根流砲術を皆伝。藩の西洋砲術兵法一般の師範役となる
士隊長・近習の兼任も命じられる |
安政 |
4 |
1857 |
34 |
長男昌棟誕生
西洋学を直接学ぶため、江戸に赴く(同年中に帰国)
士隊長の兼務が解かれる |
安政 |
6 |
1859 |
36 |
兵制改革・士気挽回策十二ヶ条を建言するも採択されず、辞表を提出(受理されず)
監察目使番に任命される
藩政の汚職を糾弾(翌年、大夫芝多民部らが処分されて落着) |
万延 |
元 |
1860 |
37 |
種々建言するも、藩政を司る重臣衆の不興を買い、辞表を提出(受理されず)
町奉行兼刑法切支丹改、鉄砲乱造取締に任命される。仙台市中の風紀挽回・治安回復の案を種々建言し、採択される |
万延 |
2 |
1861 |
38 |
養賢堂学問所幹事も兼任。学制改革・人材教育策九ヶ条を建言する |
文久 |
2 |
1862 |
39 |
監察目使番に再任 |
文久 |
3 |
1863 |
40 |
藩主慶邦公上洛(京都に参集)。道中行程の差配を一任される |
元治 |
元 |
1864 |
41 |
脇番頭に任命される。士風挽回七ヶ条を建言する
監察目使番に再々任。改革担当となる。種々建言するも採択されず、辞表を提出(受理されず) |
慶応 |
元 |
1865 |
42 |
仮町奉行に任命されるも辞退。
仙台城の仮本丸城代に任命され、同年中に脇番頭仮役に転任する |
慶応 |
2 |
1866 |
43 |
父幸清引退。家督相続
近習目付、及び軍制変革侍読長を命じられる
京・大坂の公家衆等との周旋役内命を受ける |
慶応 |
3 |
1867 |
44 |
徳川慶喜、政権を朝廷に返還する(大政奉還)。
大政奉還の報を聞いた幸歓、即時上洛・郡県制建白・京都守衛の三ヶ条を建言
脇番頭に任命される。三ヶ条の建言を藩主に直訴するとともに辞表提出(受理されず) |
慶応 |
4 |
1868 |
45 |
1月、若年寄に任命され、軍制係の長を命じられる
戊辰戦争勃発
4月、藩の軍事総務(戦目付)に任命され、会津攻略戦にて土湯口に出兵。
閏4月20日、官軍参謀世良修蔵暗殺さる。これにより喜平太は、仙台藩を守る方策が全て失われたことを悟り、隠退
白石城にて奥羽越列藩同盟締結。仙台藩も『反官軍』の色を鮮明に打ち出す。喜平太は隠退していたが、度重なる呼び出しに応じて原職に復帰する
9月15日、仙台藩降伏
12月、若年寄を免職。牡鹿郡石巻に転居 |
明治 |
2 |
1869 |
46 |
諸大名、版籍奉還する。仙台藩士全員が減封される。喜平太は俸禄二十五俵となる |
明治 |
4 |
1871 |
48 |
廃藩置県。俸禄二十五俵を全額奉還する |
明治 |
10 |
1877 |
54 |
中学区取締准十三等に任命される(学校教育関連の事務監督を行う職)
西南戦争開始。県内巡査七百名の総長に任命されるも、辞退 |
明治 |
11 |
1878 |
55 |
学区改正により中学区取締役を免職 |
明治 |
12 |
1879 |
56 |
牡鹿郡書記十三等学事主任に任命される |
明治 |
13 |
1880 |
57 |
牡鹿郡書記を辞任 |
明治 |
16 |
1883 |
60 |
長男昌棟死去
三女理子夫妻を夫婦養子とする |
明治 |
20 |
1887 |
64 |
死去。遺言により、四女萬寿の次男、徹寿を真田家後継とする |
明治 |
22 |
1889 |
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大日本帝国憲法発布 |