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真田喜平太肖像
仙台真田氏に伝来する「幸村公所用具足」を身に付け、「幸村公所用(死持)采配を手にした喜平太の油彩画です。明治初頭に同ポーズで撮影した写真があり、それをもとに描かれたものです。(真田徹氏所蔵・写真提供)

 仙台真田氏九代目当主喜平太幸歓(きへいたこうかん)は、幕末から明治維新にかけての激動期にあって仙台藩の藩政をよく支えた人物です。喜平太に命じられた役目を概観すると、御能係・西洋学問および砲兵術の研究担当・藩の砲術兵法全般の師範・町奉行・学問所(養賢堂)の幹事・藩政改革担当など、まさに文武両道というにふさわしい活躍ぶりだったことが伺えます。
 また、時流を見据えた上で必要な策を練る才能にも恵まれており、藩の兵制改革・学制改革・人材育成・治安回復などに関してたびたび建言を行いました。しかし、そうした建言の大半は採択されませんでした。当時の仙台藩では大藩の伝統に裏打ちされた保守的な政治が行われており、喜平太の先進的な考えは理解されがたかったようです。

 喜平太の建言のうち最も驚くべきものが『郡県制建白』の建言です。これは、大政奉還の報を聞いた喜平太が藩主慶邦(よしくに)に建言した三ヶ条のうちのひとつで、『天皇による政治体制を実現するには、諸大名の領地・人民を全て天皇に返し、郡県制による統治を行うことが必要』という案です。喜平太は、この案を慶邦が最初に提案することで、伊達氏が新政権の主導権を握ることができると考えたのです。
 喜平太が建言した郡県制は、後に明治政府がとった『版籍奉還』『廃藩置県』『郡県制導入』などの政策に通じるものであり、喜平太の卓越した先見性が伺えます。

 慶応4年(1868)、喜平太は若年寄に任命され、軍の目付役となります。時流は天皇中心の新たな政体に向うと読みきっていた喜平太は、すでに反朝廷勢力とみなされていた会津藩への出兵命令が朝廷から下されたとき、この会津出兵に積極的に協力することで仙台藩を守っていこうと考えますが、閏4月20日に官軍参謀世良修蔵(せらしゅうぞう)が仙台藩士によって暗殺されるに及び、万策尽きたことを悟って隠退します(後に乞われて復帰)。その後、東北諸藩を中心に奥羽越列藩同盟が発足するも、9月に仙台藩は降伏、果たして喜平太の読みどおりの結末を迎えたのでした。

 この騒乱の後、最盛期には実質百万石を誇った伊達氏の領地は28万石にまで減封され、多くの家臣・陪臣(ばいしん。家臣の、そのまた家臣)が召し放ち(解雇)となり、引き続き召し抱えられた者たちも大幅な減封となりました。喜平太は俸禄25俵で引き続き召し抱えられましたが、明治4年(1871)、明治政府が『廃藩置県』を発令し、仙台藩が終焉を迎えたのを受けて俸禄を返還しました。
 明治の世になってからの喜平太は、牡鹿(おしか)郡石巻(いしのまき。現石巻市)に暮らし、学校教育関係の事務官や、牡鹿郡の書記官などを勤めました。明治10年(1877)に西南戦争が勃発した際は、県内の旧仙台藩士から巡査700名を募集し、藩内でも特に人望のある者をその総長とするよう政府の指令があり、喜平太はその総長に推薦されるも辞退しています。 

 喜平太は、人望あつく機知に富み、武芸に秀でた人物で、仙台藩の行く末を正しく導いていくことができる稀有な存在でした。もし、喜平太の建言が採択されて仙台藩の改革が実現していたら、明治維新後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。仙台藩は「雄藩(ゆうはん)」のひとつとして明治新政府の一翼を担う存在となり、そして喜平太は、その能力を存分に発揮して日本を正しく導いた人物として後世に名を残したに違いありません。
 残念なことに、藩の保守的な体質に阻まれて思うように活躍できなかった喜平太ですが、その能力は幸隆、昌幸、そして幸村ら祖先たちのそれに匹敵したといっても過言ではないでしょう。江戸時代250余年の歳月を経てなお、名将真田氏の血脈は色あせることなく伝えられていたのです。

真田幸歓墓碑 西光寺

 仙台真田氏の菩提寺は仙台成覚寺で、二代辰信以来累代が供養されています。しかし、喜平太とその妻、そして息子昌棟は石巻で死去、当地の西光寺に葬られました。三者は後に成覚寺に改葬されましたが、墓碑は西光寺に残されました(西光寺側で請うて残してもらったと伝えられています)。喜平太の墓碑は高さ2mを超える立派なもので、喜平太の業績が刻まれています。なお、西光寺は東日本大震災の津波によって壊滅的な被害を受けています。喜平太の墓碑も倒壊し、現在も再建はなされていません。

喜平太年表

年号 西暦 年齢 できごと
文政 7 1824 1 誕生。父は真田幸清、母は林氏(弥喜曽)
天保 2 1831 8 はじめて藩主伊達斎邦公に拝謁。歳男子に任命
天保 5 1834 11 児小姓となる
天保 12 1841 18 藩主斎邦公死去。伊達慶邦公が家督相続
天保 13 1842 19 藩主慶邦公の城中理髪を命じられ、大小姓となる
天保 14 1843 20 制度改革に伴い小姓職を免職
弘化 2 1845 22 長女蓮子誕生
弘化 3 1846 23 再び大小姓となる。藩主の剣術馬術助手、及び和歌連歌衆に任命
弘化 4 1847 24 次女敏子誕生
弘化 5 1848 25 実名を幸歓と改める(これまでは喜平太幸之)
嘉永 2 1849 26 藩主慶邦公に従い江戸に参勤
江戸にてひそかに西洋学、砲術兵制を学ぶ
嘉永 3 1850 27 詞堂並びに猿楽担当学問主長に任命。『諱辰録続集』編さんを命じられる
嘉永 4 1851 28 三女理子誕生
嘉永 5 1852 29 『諱辰録続集』編さん完了(諱辰録は葦東山がまとめた歴代藩主の伝記集。仙台藩はこれまでも続集編さんを試みていたが、不成功であった)
嘉永 6 1853 30 父幸清、病を得る。喜平太が真田家名代となる
嘉永 7 1854 31 開国(日米和親条約締結)
砲術兵法蘭学の研究を命じられる
四女萬寿誕生
安政 2 1855 32 奥小姓となる
西洋兵制砲術研究を命じられ、下曽根甲斐守に入門
安政 3 1856 33 下曽根流砲術を皆伝。藩の西洋砲術兵法一般の師範役となる
士隊長・近習の兼任も命じられる
安政 4 1857 34 長男昌棟誕生
西洋学を直接学ぶため、江戸に赴く(同年中に帰国)
士隊長の兼務が解かれる
安政 6 1859 36 兵制改革・士気挽回策十二ヶ条を建言するも採択されず、辞表を提出(受理されず)
監察目使番に任命される
藩政の汚職を糾弾(翌年、大夫芝多民部らが処分されて落着)
万延 1860 37 種々建言するも、藩政を司る重臣衆の不興を買い、辞表を提出(受理されず)
町奉行兼刑法切支丹改、鉄砲乱造取締に任命される。仙台市中の風紀挽回・治安回復の案を種々建言し、採択される
万延 2 1861 38 養賢堂学問所幹事も兼任。学制改革・人材教育策九ヶ条を建言する
文久 2 1862 39 監察目使番に再任
文久 3 1863 40 藩主慶邦公上洛(京都に参集)。道中行程の差配を一任される
元治 1864 41 脇番頭に任命される。士風挽回七ヶ条を建言する
監察目使番に再々任。改革担当となる。種々建言するも採択されず、辞表を提出(受理されず)
慶応 1865 42 仮町奉行に任命されるも辞退。
仙台城の仮本丸城代に任命され、同年中に脇番頭仮役に転任する
慶応 2 1866 43 父幸清引退。家督相続
近習目付、及び軍制変革侍読長を命じられる
京・大坂の公家衆等との周旋役内命を受ける
慶応 3 1867 44 徳川慶喜、政権を朝廷に返還する(大政奉還)。
大政奉還の報を聞いた幸歓、即時上洛・郡県制建白・京都守衛の三ヶ条を建言
脇番頭に任命される。三ヶ条の建言を藩主に直訴するとともに辞表提出(受理されず)
慶応 4 1868 45 1月、若年寄に任命され、軍制係の長を命じられる
 戊辰戦争勃発
4月、藩の軍事総務(戦目付)に任命され、会津攻略戦にて土湯口に出兵。
閏4月20日、官軍参謀世良修蔵暗殺さる。これにより喜平太は、仙台藩を守る方策が全て失われたことを悟り、隠退
 白石城にて奥羽越列藩同盟締結。仙台藩も『反官軍』の色を鮮明に打ち出す。喜平太は隠退していたが、度重なる呼び出しに応じて原職に復帰する
9月15日、仙台藩降伏
12月、若年寄を免職。牡鹿郡石巻に転居
明治 2 1869 46 諸大名、版籍奉還する。仙台藩士全員が減封される。喜平太は俸禄二十五俵となる
明治 4 1871 48 廃藩置県。俸禄二十五俵を全額奉還する
明治 10 1877 54 中学区取締准十三等に任命される(学校教育関連の事務監督を行う職)
西南戦争開始。県内巡査七百名の総長に任命されるも、辞退
明治 11 1878 55 学区改正により中学区取締役を免職
明治 12 1879 56 牡鹿郡書記十三等学事主任に任命される
明治 13 1880 57 牡鹿郡書記を辞任
明治 16 1883 60 長男昌棟死去
三女理子夫妻を夫婦養子とする
明治 20 1887 64 死去。遺言により、四女萬寿の次男、徹寿を真田家後継とする
明治 22 1889 大日本帝国憲法発布

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