年号 |
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西暦 |
年齢 |
できごと |
慶長 |
17 |
1612 |
1 |
真田大八誕生。父は真田幸村、母は大谷吉隆(吉継)の娘 |
慶長 |
19 |
1614 |
3 |
大坂冬の陣。父幸村、兄大助(幸昌)が参戦。 |
慶長 |
20 |
1615 |
4 |
大坂夏の陣。幸村、徳川家康本隊に突撃を敢行し、討死。大助(幸昌)も大坂城内で自刃。
幸村討死の前夜、幸村五女阿梅が仙台藩主伊達政宗の先鋒、片倉重綱のもとに送り届けられる。
大坂落城後、伊達隊は京都に駐屯。阿梅も伊達家の屋敷内にかくまわれる。大八、幸村陪臣西村孫之進・我妻佐渡に護衛されつつ、他の女子たちとともに阿梅に合流
大八、伊達隊にかくまわれて仙台領に入る。阿梅ら女子たちは白石城内で養育される
大八、名を片倉久米介と改め、片倉氏より食客録一千石を賜り、白石城外で養育される
西村孫之進・我妻佐渡は仙台まで大八らに付き従う。その後、西村は他家に出仕、我妻は刈田郡曲竹村に居住 |
元和 |
4 |
1618 |
7 |
真田大八、京都にて印地打(石合戦)の石に当って死亡(何者かが流布させた偽情報) |
元和 |
5 |
1619 |
9 |
幸村の遺臣三井景国、片倉重綱より奥州に向うよう勧められる(後、三井氏は片倉家臣となる)
京都所司代、大坂の陣における大坂方浪人に対して『お構いなし』の範例を提示(熊本藩に対する指示)
庵原元鄰、三井とともに江戸に到着、江戸にて伊達家臣となる(庵原氏はもと今川家臣の一族。今川氏滅亡後は一族離散し、それぞれ武田・徳川・織田など諸氏に仕える。元鄰は武田氏に依った庵原氏の末と思われる。武田氏滅亡後は真田氏の与力的な存在となり、大坂落城時からこのときまで、三井景国と協力しつつ幸村の遺族を擁護してきたのではないかと推測される) |
元和 |
6 |
1620 |
10 |
白石城内で養育されていた幸村五女阿梅、片倉重綱の後添えとなる |
元和 |
8 |
1622 |
12 |
幸村兄、真田信之、上田から松城十万石に転封。松城真田氏の祖となる |
元和 |
9 |
1623 |
13 |
庵原元鄰、二百石の領地を拝領す(この領地がどこに与えられたかは不明だが、庵原氏の領地は刈田郡曲竹村に多く、在郷屋敷も同村中に拝領しているので、やはり曲竹村内に与えられたとみるのが妥当と考えられる) |
寛永 |
6 |
1629 |
17 |
この頃、真田大八(片倉久米介)、元服。名を片倉四郎兵衛守信と名乗った。 |
寛永 |
11 |
1634 |
24 |
三井景国次男、善久坊を創立 |
寛永 |
17 |
1640 |
30 |
守信、真田四郎兵衛守信と名乗り、伊達家臣に召し抱えられる。家格は永代召出二番座、俸禄は蔵米三百石取。
幕府が仙台藩に対して真田守信の身上調査を命じる。守信、藩に上申して姓を片倉に戻す。 |
正保 |
元 |
1644 |
34 |
守信、蔵米取から知行(領地)取に直され、刈田郡矢附村・同曲竹村・栗原郡一迫八沢村・同刈敷村に都合三百石の領地を与えられた。また、矢附村に在郷屋敷を拝領。以後、矢附村は仙台真田氏にとって本貫の地ともいえる縁深い土地となる |
明暦 |
2 |
1656 |
46 |
長男辰信誕生
片倉重綱、白石城下当信寺に寺領五百一文を寄進する |
明暦 |
3 |
1657 |
47 |
守信、公儀使(幕府との対応役。広い知識と教養、特別の訓練と多年の経験が必要とされる)に任命されるも、即日免職となる(表向きの理由は『悪筆』。しかし実際には、守信の身元について幕府側が疑念を払拭していなかったため、守信が公儀使になると藩政の停滞を招くおそれがあったからと推測される) |
万治 |
2 |
1659 |
49 |
片倉重綱、死去
善久坊、法源山清林寺と改号する |
万治 |
3 |
1660 |
50 |
我妻佐渡、死去。墓碑は刈田郡曲竹村に建立 |
寛文 |
3 |
1663 |
53 |
守信、武頭に任命される |
寛文 |
9 |
1669 |
59 |
守信、武頭を辞任 |
寛文 |
10 |
1670 |
60 |
守信、死去。当信寺に葬られる
守信長男辰信、家督相続 |
天和 |
元 |
1681 |
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阿梅、死去。当信寺に葬られる。当信寺は阿梅の菩提寺 |
正徳 |
2 |
1712 |
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真田復姓なる(真田姓を名乗るにあたり、将軍家をはばかる必要はないとの藩の内意を受けての復姓)。大坂落城より97年、守信が真田姓から片倉姓に戻してから72年が経過していた
辰信、片倉氏から与えられていた食客録一千石を返還 |