ま え と う ち い せ き |
|
|
|
|
|
|
|
前戸内遺跡で発見された竪穴住居跡や掘立柱建物跡 |
|
主屋と周辺に配置された建物群 |
前戸内遺跡は、小村崎地区にある熊野神社の東側に広がる低い丘の上にあります。小村崎地区では水田を使いやすいものに作り替える「県営ほ場整備事業」が計画され、工事に先立って平成20・21年度に発掘調査を実施しました。
調査の結果、平安時代前半(約1,200〜1,000年前)の掘立柱建物跡23棟、竪穴住居跡18軒などが発見されました。掘立柱建物跡の一部はL字形に並び、大きな柱穴をもつ主屋や、倉庫と考えられるものがあります。竪穴住居跡は小型のものが多く、「住居」と言うよりは煮炊きをする台所のように使われたと考えられます。当時の食器類(土師器・須恵器)や鉄製品(鎌)、砥石などが出土しました。皿や椀として使われた土師器の坏(つき)には、文字の書かれたものもありました。
当時の庶民の住まいは竪穴住居が一般的で、掘立柱建物は主に役所や寺院などに作られました。前戸内遺跡の集落は掘立柱建物を中心に構成され、墨書土器も多く出土していますが、役所や寺院の存在を示す痕跡は見つかっていません。同じ場所で竪穴住居跡と掘立柱建物跡が混在して発見されていることから、役所や寺院よりも生活色が濃く、この地域でも中心的な役割をもった有力者(豪族)の住まいであった可能性が考えられます。
当時の地方のムラは、律令制度によって約50戸ごとに「郷」という単位でまとめられ、その土地の豪族などから「郷長」が選ばれました。郷長はムラの代表者であると同時に、家の敷地に倉を建てて税の取り立てや稲の貸付けを管理する役人としての役割も担っていました。前戸内遺跡の豪族居宅には倉庫と推定される建物群があることから、居宅の豪族は郷長を務めていた可能性も考えられます。
このように、平安時代に地方のムラに居住しながら律令制度の末端の役職を担った可能性のある有力者の居宅跡は町内では初めての発見で、当時のこの地域のムラの様子や律令政府による地方支配の実態をを知る上で重要な発見となりました。
|
|
|
主屋だったと考えられる建物跡(手前)。東西7.7m、南北4.9mで、柱を立てるために掘られた穴も周囲の建物より大きく立派です。 |
竪穴住居跡は一辺が3mほどの小型のものが多く、煮炊きをするための専用の台所のように使われたと考えられます。 |
|
|
出土した土器。煮炊きや貯蔵用の甕(かめ)は少なく、皿や椀として使われた坏(つき)が多く出土しました。 |
文字の書かれた土器。当時、文字の読み書きができるのは役人や地域の有力者に限られていました。 |
|
|
|
|
|
|
|
前戸内遺跡の豪族居宅から出土した土器に書かれた「苅田」の文字 |
前戸内遺跡では、平安時代の土器の中に文字の書かれたもの(墨書土器)が27点確認されました。この中には墨が薄く、不鮮明なものも多くあります。このうちの1点を簡易赤外線カメラで観察すると、「苅田」の文字が浮かび上がりました。
続日本紀には「養老5年(721年・約1290年前) 陸奥国柴田郡の二郷を分割して苅田郡を置く」という内容の記載があり、土器に書かれた「苅田」の文字は、当時の郡名を記したものと考えられます。
前戸内遺跡のある円田盆地北部は、現在刈田郡蔵王町に属しています。ところが、戦国時代の記録には一部が柴田郡と記載され、郡の境界が時代によって変化していたことが分かっています。続日本紀に記された、奈良時代に苅田郡が設置された時の「二郷」がどこを指すのかも明確でなく、古代の円田盆地が柴田郡と苅田郡のどちらの郡域に属したのかは未解明の謎だったのです。
前戸内遺跡で出土した「苅田」の墨書土器は、「苅田」の文字を記した考古資料としては多賀城市市川橋遺跡(陸奥国府多賀城南面の町並み跡)出土資料と並んで最古段階のものです。こうした資料が円田盆地内の地域のリーダーであり、郷長クラスの役人を務めた可能性のある豪族の家から発見されたことは、平安時代前葉に円田盆地北部が苅田郡に属していたことを裏付ける有力な証拠であると考えられます。
これにより、少なくとも平安時代には現在の蔵王町のほぼ全域が刈田郡内に含まれていたと考えられるようになりました。この発見は、刈田郡の成立を考える上で重要であり、今後の研究によって県南地方における古代の律令政府による地方支配体制の実態解明に寄与することが期待されます。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
所在地 |
: |
蔵王町大字小村崎字前戸内 |
時代 |
: |
平安時代前半(9世紀前葉〜中葉) |
種類 |
: |
豪族居宅跡・集落跡 |
遺構 |
: |
掘立柱建物跡・竪穴住居跡など |
遺物 |
: |
土師器・須恵器・墨書土器(「苅田」・「草手」など)・鉄製品・砥石など |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
・ |
熊野神社東側の丘陵裾部一帯が遺跡です。 |
|
・ |
現地には説明看板を設置しています(熊野神社向かい側の町道沿い)。 |
|
・ |
遺跡の現状は水田・畑地です(発掘調査をした場所は農業用の溜め池、水路になっています)。 |
|
|
|
|
|
|
|