高野家は伊達家譜代の家臣で、平沢に所領を与えられ、江戸期を通じてこの地を治めました。もとは鎌倉幕府の御家人で、初代時家(ときいえ)が常陸国多珂郡高野庄(たかぐんたかののしょう)に住み、高野姓を名乗ったことにはじまります。
八代知定(ともさだ)のとき出羽国置賜郡長井庄(おきたまぐんながいのしょう)に移り、九代知清(ともきよ)のとき伊達家に臣従し、十二代知有(ともあり?)のとき同郡吉田村に移りました。十四代親兼(ちかかね)は伊達輝宗(てるむね)・政宗(まさむね)に従って戦功を上げ、陸奥国伊具郡丸森(いぐぐんまるもり)の丸森城拝領、知行百貫文を与えられました。当時、伊達家にとって伊具郡は相馬氏との摩擦の絶えない要地であり、この地を任された親兼がいかに伊達家に信頼されていたかがわかります。
高野家が平沢に領地を得たのは十五代光兼(みつかね)のときで、親兼の死去により光兼が家督を継ぐも若年にして要地を任せることができず、慶長7(1602)年領地替えとなったのです。平沢要害拝領、知行は同前の百貫文でした。
江戸期には平沢領主として、また仙台藩政に参画する要臣としてあり続けました。わけても十八代武兼(たけかね)は藩主綱村(つなむら)の信頼厚く、領内の安定に尽くし、社寺の整備に努めるなど、善政を敷きました。武兼のとき百六十五貫文に加増されています。その子の十九代倫兼(ともかね)も、父武兼の善政を引き継ぐとともに、若老(じゃくろう)として藩政をあずかった名君でした。
平沢要害館下町(たてしたまち)の形成や神社仏閣の保護・整備など、江戸期250年余に及ぶ領内の治世を司ってきた平沢の統括者、それが高野家なのです。
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