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す み や き と う た
炭焼藤太

話し手
編 集

菅井酉治さん(蔵王町遠刈田温泉)
蔵王町教育委員会(2009)

 むかしむかし、鳥羽天皇の御代(みよ)。京の東山に、三条盛實公(さんじょうもりざねこう)というお公家さんが住んでいました。盛實公は子供がおりませんでしたので、何とか子宝を授かりたいと、日頃から信仰していた北野天満宮に願を掛けました。すると、おめでたいことに女児を授かりました。

 盛實公は、女児を豊丸姫と名付けて大切に育てましたが、残念なことに五歳のとき、疱瘡(ほうそう)を患ってしまいました。運よく回復したものの、かわいそうなことに、あばただらけの醜い顔になってしまいましたが、気立てのよい、優しい姫君に育ちました。

 やがて、姫も年頃になりましたが、いっこうに良縁に恵まれず、盛實公も心配していました。ある夜、姫の夢枕に神様が現れ、奥州信夫郡平田村の炭焼藤太という者こそ、姫の夫となるべき人だと告げました。姫は、お告げがあったことを盛實公に話し、名をおまんと改め、乳母のりんをお供にして、はるばる奥州へと旅立つ事にしました。

 さて、奥州は平田村に着いてみると、そこには炭焼藤太はいませんでした。村人に尋ねると、藤太はさらに山奥に入って炭焼きをしているのだということです。そこで、姫はさらに旅を続け、途中、宮の白鳥(しろとり)神社に参拝して、さらに進むと川があって、橋が流されて渡れなくなっていました。仕方なく着物の裾をたくし上げて渡ろうとしましたが、姫が恥ずかしいと言うと、突然川が逆さに流れたため、苦労せずに渡ることができました。姫はこの川を『逆川(さかさがわ)』と名付けて、さらに進むと、坂道のところまで藤太が迎えに出ていました。姫はこの坂を『妻恋坂(つまこいざか)』と名付けました。これが『小妻坂(こつまざか)』という地名のはじまりです。藤太と連れ立って少し進むと、雁がたくさんいる沼がありました。姫はここを『雁沢(がんざわ)』と名付けて、さらに進み、ようやく藤太の暮らす岩崎山の小屋にたどり着きました。

岩崎山と坑道の跡
 藤太は炭焼きを仕事としているので、小屋のまわりの木々がぜんぶ、炭焼きの煙で芯枯れを起こしていました。これを見た姫は、ここを『志ん枯山(しんかれやま)』と名付けました。

 二人は夫婦になって暮らし始めましたが、藤太は貧乏で、その日の食にも困る有り様でした。姫は、「町に行って、この金で食べ物を買ってきてください。」と、持参した黄金を藤太に渡しました。すると藤太は驚いて、「こんなものなら自分の炭窯にいくらでもある。」と言いました。姫が藤太の炭窯をのぞいて見ると、窯の中はピカピカの黄金で一杯でした。姫は、岩崎山が金山であることを知り、藤太と二人で金を掘りはじめました。岩崎山は、今は篭山(かごやま)と呼ばれています。また、元和二年、藤太が金を採掘しているときに湧き出した霊泉こそが、遠刈田温泉のはじまりなのです。

 天治元年、二人の間に男児が誕生し、橘次信高(きちじのぶたか)と名付けられました。また、次男橘内信氏(きちないのぶうじ)、三男橘六信元(きちろくのぶもと)と、子宝にも恵まれました。橘次は、京の三条に屋敷を構え、岩崎山から産出した金を商って大長者になり、後には京に大仏を建立しました。また、仙北の金成(かんなり)でも金の採掘を行い、奥州藤原氏にも盛んに金を売り、金売橘次(かねうりきちじ)と呼ばれました。橘次はまた侠勇(きょうゆう)の徒でもあり、源氏再興に力を貸しました。後に橘次は、元和元年(1615年)兼頼公(かねよりこう)より黒印を受け、また、慶安元年(1648)には家光公より朱印を受ました。

五輪堂
 藤太夫婦の没後、四男嘉藤太信正(かとうたのぶまさ)は、山形宝沢村(ほうざわむら)の住吉神社に両親の霊をお祀りしました。

 また、おまん姫のお供として京からやってきた乳母のりんは、「姫は大変心優しい人ですが、病のためにこのようなお顔になってしまいました。私が亡き後は、世の人々、特に子供の病を治し守りたいです。」と言って亡くなりました。藤太夫婦はりんの徳を思い、五輪堂(ごりんどう)を建ててその霊をまつりました。子供の夜泣き、吹き出物、石疣などに霊験があらたかなため、今でもお参りする人が絶えません。


※菅井さんのお話に基づき、その内容・意味・趣旨に変更を加えることなく、文章の順番・文体のみ修正しました。
2009.4.17更新

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