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か っ た み ね じ ん じ ゃ
その5 刈田嶺神社(3)

※本コラムは「刈田嶺神社(1)及び(2)」の続きです。(1)及び(2)をお読みになってから本コラムをお読み下さい。

 太古より「神山」と崇められてきた刈田岳は、修験道の興隆により平安時代には「蔵王山」と呼ばれるようになりました。往時、蔵王山を道場とする修験者たちは青麻山東麓にの願行寺を中心に活動していましたが、後に願行寺は廃れ、江戸時代には遠刈田温泉の「金峰山蔵王寺嶽之坊(きんぷせんざおうじだけのぼう)」が蔵王大権現社と蔵王参詣表口の統括者となり、江戸後期からはじまる「蔵王の御山詣りブーム」を支えることになりました。また、蔵王信仰の根源である蔵王大権現社は、蔵王山が雪深い高山で冬場の参詣がままならないことから、いつの頃からか山頂の本社と遠刈田温泉の御旅宮(おかりのみや)とが営まれるようになり、季節ごとに祭神を遷座するならわしとなりました。
 
 当時の蔵王大権現社というのは、由緒はともかく施設としては小さなお社があるだけでした。参考までに安永9(1781)年刊の安永風土記によると、山頂の社は一間四方、御旅宮は正面三間でした。両社とも住職がいるわけでもなく、その管理運営は全面的に嶽之坊が担っていました。一方、嶽之坊も当初は無住寺であったものが、蔵王の御山詣りの隆盛に伴って住職が置かれるようになったという経緯があります。すなわち、蔵王大権現社と嶽之坊とは、蔵王の御山詣りによって、不可分なほどに深くつながっていたのです。

 1868年、明治維新を迎えると、宗教界に大きな変革が訪れました。「神仏分離令(しんぶつぶんりれい)」です。この神仏分離令、要するに「日本の国の正式な宗教は神道である。しかし、長い時間の経過の中で、仏教など外来の宗教の概念が入り込み、神道とない交ぜになっっている。今後は、神道は神道、仏教は仏教と、ない交ぜになっってしまったものを判然と分離して取り扱わねばならない」ということです。この令により、「神仏混淆(しんぶつこんこう)の禁止」「権現信仰の禁止」「寺社兼帯(じしゃけんたい)の禁止」など、それまではごく当然とされてきた多くのことが禁じられたのです。

 蔵王信仰の根本である蔵王大権現は、その由緒をたどれば、願行によって吉野金峯山寺蔵王堂より分祀されたものです。それゆえに、伝統的に当地の蔵王信仰は吉野と深いつながりを持ち続けていました。明治元年、神仏分離令の一環から明治政府が吉野に対して「蔵王権現を神号とし、僧侶は神官とする」旨の指示を出した際も、その指示が遠刈田温泉の嶽之坊住職のもとにまで届き、それによって明治2(1869)年7月、「蔵王大権現」は「蔵王大神(ざおうだいじん?ざおうおおみかみ?)」へと改号しました。さらに同年9月、「蔵王大神」とは「天水分神・国水分神(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)」であるとして、社号を「水分神社(みくまりじんじゃ)」とすることになりました。また、この時点で嶽之坊は蔵王大権現社=水分神社と合一したようです。

 その後、明治8(1875)年、水分神社は「刈田嶺神社」へと改号します。これは、蔵王山と呼ばれ続けた山が往古より神山として崇められていた「刈田嶺」であることから、蔵王大神(水分神)が刈田嶺神と同一の神であると解釈されたからだと思われます。

 また、嶽之坊が連綿と続けてきた、山頂蔵王大権現社と御旅宮との間の季節遷座ですが、これは明治の改宗・改号後も続けられました。遷座させる祭神は「蔵王大権現」から「天水分神・国水分神」へと変わりましたが、毎年夏場には、山頂の「刈田嶺神社奥宮(おくのみや)」に、冬場には遠刈田温泉の「刈田嶺神社郷宮(さとみや)」にと遷座します。長く続けられた伝統は、政治や情勢の変化にさらされたとしても、その根幹は変わらず残り続けるのだ、という好例ではないでしょうか。

 とても長くなってしまいましたが、ようやく「3つの刈田嶺神社」の由来をお伝えすることができました。太古から神山として崇められていた「刈田嶺」をめぐり、その信仰を直接伝えた神社が、宮の刈田嶺神社。平安時代に興った修験者による「蔵王信仰」が長い時間の中で変化してきた神社が、刈田岳山頂と遠刈田温泉の蔵王刈田嶺神社。いずれの神社も、わたしたちの地域最大のシンボルである「蔵王の山」にまつわる信仰の要なのです。

<おわり>

2009年7月3日更新<Y>

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