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蔵王町・真田の郷PROJECT―トピックス

「仙台真田氏歴史セミナー」開催しました

今年の6月3日は、真田幸村公没後400年の御命日(新暦換算)でした。
その記念すべき日を前に、幸村公の生涯をしのびつつ、数奇な運命の末にわが町にその血脈が伝えられることになったことを学ぶため暦岸セミナーが開催されました。

主催したのは、真田で地域を盛り上げることを目的として活動を続ける民間サークル「蔵王山麓真田の郷を磨く会」(フェイスブックページ)。
オリジナル真田グッズの企画・制作・販売や、イベントなどでのブース出展をメインの活動としていますが、この度、初の大型主催事業としてこの歴史セミナーを催しました。

当日は330人以上もの参加者をお迎えし、

講師は、大河ドラマ「真田丸」の放送開始を控えて今や時の人となった、真田幸村公から十四代目のご当主・真田徹氏。

テーマは「真田にまつわる謎を解く!」。さらに「真田幸村 虚像と実像」というサブテーマを設けてご講演いただきました。


講演の概要(講演とレジュメを参考に、大意をまとめて読み物形式にしました)

 まずは真田幸村という人物の生涯についは最後1年の「大坂の陣」だけが華々しく記録も豊富です。しかし、それ以前のことについては非常に限られたことしか解っていいません。しかし、断片的な情報ながら、豊臣秀吉の下で「将来の豊臣政権を支える幹部候補生」として期待されていたこと、そうした期待を受けるに足るだけの人望と能力が備わった人物だったことが伺えます。最後の戦である「大坂冬の陣・夏の陣」での活躍も、そのベースとなる戦略・戦術は、父昌幸から伝授されたものであり、幸村がすごいというよりは、昌幸あるいは真田一族がすごい、と言った方が適切かもしれません。

 大坂の陣における幸村の活躍については、後世の講談や小説などで大きく取り上げられてきたために物語的な脚色や心情解釈が著しく、史実では他人の功績であるにもかかわらず、後世幸村の手柄とされたものや、幸村が単独で行ったとされる行動が実は大坂方全軍の作戦行動だったなど、幸村をヒーローとして祭り上げるため史実の捻じ曲げまでも起こっています。一般に流布している幸村の姿は、彼の死後400年間にわたって作り上げられてきた「虚像」であると言っても過言でなく、歴史的視点で彼の活躍を冷静に見つめ直し、幸村の「実像」を把握し、虚像と区別して考えることが大切です。

3つの謎について

謎その1 「徳川家康は大坂夏の陣で戦死していた!?」
 大坂夏の陣の最終局面、幸村が家康本陣に突撃を仕掛けた際、史実では家康は危機を脱したとされていますが、一説には「幸村の突撃を受けた家康が駕籠に乗って逃げる途中、後藤又兵衛によって討ち取られた」という話が伝わっています。史実では又兵衛はこの前日に戦死しているので筋が通らないのですが、仮に、幸村が又兵衛に置き変わったととらえるとどうでしょう?
 日光東照宮にある家康所用の駕籠には傷穴が2ヶ所開いています。これは鉄砲傷と思われ、何らかの襲撃を受けたことを物語っています。やはり家康は戦死していたのか!? と考えると話が面白くなりますが、残念ながら家康戦死を裏付ける証拠はありません。おそらくは、後世の人々が思い描いた「反骨のヒーロー真田幸村」に相応しいエピソードとして語られるようになったものと思われます。
 ただし、ひとつ不思議な事実が伝わっています。それは、堺の南宗寺に「徳川家康の墓」があることです。これが単純に「家康の墓」とだけ伝えられているのであれば、徳川憎しの大坂の人々のいたずらという解釈も成り立つのですが、なんとこのお墓には、徳川秀忠・家光がそれぞれ参拝しているのです。これをどのように解釈するか、そこは各位のご想像にお任せします。

謎その2 「伊達政宗・片倉重綱はなぜ幸村の子供たちを助けたのか!?」
 大坂夏の陣の5月6日、幸村軍は伊達政宗の軍に遭遇し、その先鋒・片倉重綱隊と戦闘を繰り広げました。その晩、幸村は片倉の陣前に娘の阿梅を送り届けました。最終的に重綱は幸村の子女5人を養育することとなります。ここで、なぜ片倉重綱は幸村の子供を預かったのか? という疑問が浮かびます。
 講談話では「自分と五分の戦いを繰り広げる重綱の器量を見込んだ」となりますが、実際には考えにくいと思います。また、徳川家にとって大罪人にあたる幸村の息子・大八を匿うということは、下手をすると主家である伊達家の存続にもかかわる大事ですので、重綱個人が請け負えることではないはずです。幸村の子供たちを引き取るにあたっては、政宗の了解と差配があったと考えるのが自然です。確証はないものの、戦前から幸村と政宗との間に「密約」があったと考えると理解しやすいと思います。「密約」の内容は、おそらくは「徳川家康の抹殺」だったのではないでしょうか?
 当時、伊達政宗は全国トップクラスの権力を持つ大名で、家康の六男・松平忠輝の岳父として徳川家中枢にも着実に根を伸ばしていました。もし、大坂で家康が戦死したとしたら…? 政宗自身が即刻天下を手中にできるわけではないものの、徳川家の屋台骨が大きく揺らぐ中、自分の権勢を大きく伸ばすまたとないチャンスとなったはずです。そして、政宗の生き方を見ると、こういうタイミングを逃すとも思えないわけです。政宗は、子供たちの行く末と真田の血を絶やさず伝えるという、幸村にとっての死後の心残りを引き受けることで、幸村に存分な戦働きを期待したのではないでしょうか。

謎その3 「幸村のまわりに現れる謎の家紋『剣かたばみ』」
 白石当信寺にある阿梅のお墓の台座には「剣かたばみ」の家紋が彫られています。また、大八が阿梅からいただいた文箱にも、六文銭とともに「剣かたばみ」が描かれています。この文箱は阿梅が母親・竹林院から頂いたものを大八に譲ったもので、もともとは阿梅のために作られたものです。このように、幸村のまわりというよりむしろ阿梅のまわりに「剣かたばみ」の家紋が現れています。
 当初、この家紋は「女紋」ではないかという説もありました。「女紋」は、母から娘へ、娘からその娘へ…と、女子に相続される紋です。しかし、いろいろ調べていくうちに、どうやらこの家紋は「真田家の総領娘に伝えられる紋」ということがわかってきました。つまり「剣かたばみ」は、「結び雁金」「六文銭」「州浜」とともに真田家の家紋であり、真田家に生まれた女子、その中でも姉妹の筆頭格となる女子が用いる紋ということです。阿梅は幸村の正室・竹林院から生まれた女子の中では最年長であり、9人確認されている幸村の女子では筆頭格として「剣かたばみ」を用いたのです。



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