蔵王町は、真田幸村公ゆかりの郷です。―真田の郷・蔵王町 PR活動公式ホームページ




片倉守信(真田大八)肖像
大坂夏の陣で討死した、真田幸村公の次男大八の成人後の姿です。衣に染め抜かれた紋は「結雁金(むすびかりがね)」。真田氏の家紋といえば、「六文銭」があまりにも有名ですが、仙台真田氏ではこれを用いることがありませんでした。(真田徹氏所蔵・小西幸雄氏写真提供)

 慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣において真田幸村は徳川家康本陣に突撃をしかけるも、果たせず討死しました。その前日にあたる5月6日夜、幸村は、大坂城内に入城させてあった五女阿梅(おうめ)を、敵方である伊達政宗の重臣、片倉小十郎重綱のもとにひそかに送り届けました。大坂落城の後、伊達政宗の軍勢はいったん京都に駐屯します(5月9日〜7月23日)。ここでまた重綱のもとに、幸村の遺臣三井景国(みついかげくに)の家臣我妻佐渡(あがつまさど)・西村孫之進(にしむらまごのしん)に護られながら、幸村の四女お弁、七女おかね、八女(名前不明)、そして次男大八が送り届けられました。7月23日、幸村の子女5名は伊達政宗の軍勢にかくまわれる形で京都を出発、江戸を経て仙台に到着したのは9月5日のことでした。
 仙台到着後、子女たちは片倉重綱の保護を受け、4人の姫は白石城内にて養育されました。後、阿梅は片倉重綱の後添えとなりました。また、お弁は彦根藩士青木朝之に、おかねは京の茶人石川宗雲(宗林)に、それぞれ嫁しました(八女は夭折し、その名前は伝わっておりません)。また、大坂夏の陣の後も京で暮らしていた幸村九女阿菖蒲(おしょうぶ)は、後に片倉重綱によって白石に呼び寄せられ、重綱・阿梅夫妻の養女とした上で片倉定広(かつて豊臣秀吉によって取り潰された三春の戦国大名・田村氏の末裔。田村氏没落後は牛縊氏(うしくびりし)を称し、伊具郡内に暮らしていたが、田村氏の出である政宗の妻愛姫のはからいにより、政宗の乳母片倉喜多の名跡を継いで片倉姓を名乗り、伊達家に仕えた)に嫁ぎました。
 一方、幸村の次男大八は名を片倉久米介(くめのすけ)と改め、片倉氏から百貫文の食客禄を与えられて客分として白石城外で養育され、元服後は四郎兵衛守信と名乗りました。
 真田大八が白石にて養育されているという事実は、厳重に秘匿(ひとく)されました。これは、白石で養育された幸村の女子たちの存在を公にしていたのと正反対で、大八が「真田幸村の男子」であったがための処遇でした。徳川方から見れば、真田幸村は大坂の陣での大罪人です。その血脈を伝える男子が生きているとなれば、徳川にとって末代までの禍根の種となるやも知れません。万一露見すれば、大八本人の処刑は言うに及ばず、かくまっている伊達氏・片倉氏も無事では済まないでしょうから、何があっても大八の存在は秘密にされなければならないものでした。白石において大八は片倉久米介と改名するとともに、姉たちと異なり城外で育てられましたが、これらは真田氏とのつながりを悟られないための配慮だったのでしょう。
 また、大坂落城後数年の間に、「真田大八は京都で死亡していた」という情報が流布されました。これは明らかに偽情報であり、出所も不明ですが、おそらくは片倉重綱、あるいは伊達政宗が仕組んだものだと思われます。
 さらに片倉重綱・伊達政宗は、守信が幸村の叔父真田信尹(のぶただ)の子孫であるとした系図偽造までも行ったようです。「幸村とは別な真田氏」を創作することによって、守信に真田姓を名乗らせようとしたのでしょう。


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